沖縄戦前後の軍用飛行場

伊江村

名 称
旧日本軍:陸軍伊江島飛行場
米軍:伊江島補助飛行場、伊江島訓練施設、伊江島レンジ
民間:伊江島空港

歴 史
1943年 陸軍航空本部より工事開始。44年、飛行場設営隊の飛行場大隊が設置され、東、中、西の滑走路(1500m)を有する飛行場として建設。東、中滑走路は完成、西滑走路は未完成。
45年3月13日、第32軍、滑走路爆破を命令。
45年4月16日、米軍が伊江島に上陸。2日後、滑走路補修を開始。中、東滑走路を1830mに拡張。新たに2130m滑走路2本を新設(中、西滑走路)。

現 況
東滑走路−伊江島空港として、海洋博開催時に、観客輸送用として開港。現在、エアドルフィンのチャーター機が使用。
中滑走路−米軍伊江島補助飛行場。現在解放。
西滑走路−米海兵隊訓練施設。
伊江島補助飛行場
伊江島空港

本部町

名 称
米軍:本部飛行場、上本部飛行場、上本部補助飛行場、桃原飛行場

歴 史
1945年6月、米軍が偵察機用として建設。
1947年ごろ、周辺地域を接収して飛行場の拡張整備を行ったが、機能的には弾薬集積所として使用され、海兵隊のヘリコプターや戦車の演習地としても使用された。
標高約40m、幅54m、長さ1680mの滑走路、270mのオーバーラン、誘導路、駐機場を持っていた。
1969年6月と71年6月の2回に分けて全面返還された。

現 況
放置
米軍本部飛行場跡

金武町

名 称
米軍:チム(CHIMU)飛行場、キャンプ・ハンセン
(チムは、米軍による金武(きん)の聞き間違いから)

歴 史
1945年2月28日、米軍偵察機、金武の空中撮影を行い、飛行場予定地を選定する。
1945年3月23日、米軍の沖縄攻略作戦開始。金武の飛行場予定地に絨毯爆撃を行う。
・・・住民は、何故山や畑しか無い所を爆撃するのか、非常に不思議がっていたそうである。
1945年4月6日、米軍、金武地区に侵攻、占領の上、飛行場建設開始。約10日間で1520mの滑走路を持つ、小型、中型爆撃機用の飛行場をほぼ完成させる。以降、日本本土攻撃に使用。
1945年5月16日、21日、2度に渡り、山に立てこもる日本軍の遊撃隊により襲撃される。また、この事により、米軍から、金武町住民が遊撃隊との関係を疑われ、とばっちりを受ける。
1945年8月、終戦により、使用されなくなる。
1946年後半以降、航空基地機能の嘉手納集約の為放棄。
1947年7月22日、飛行場を射撃場として再使用開始。小火器、大砲、戦闘機重爆撃訓練等々に使用。
1951年1月、飛行場跡に木造兵舎建設開始。
1956年6月、海兵隊、仮兵舎にて駐屯開始。
1959年7月、キャンプ・ハンセン建設開始。
1962年10月、キャンプ・ハンセン工事完了。

現 況

キャンプ・ハンセン

★31st MEU
http://www.31meu.usmc.mil/

読谷村

所在地
旧日本軍:陸軍沖縄北飛行場
米軍:読谷補助飛行場

歴 史
1943年、陸軍沖縄北飛行場として建設開始。44年に1500m滑走路3本を持つ飛行場として完成。
1945年、米軍上陸と共に占領、4月3日より使用。
戦後、嘉手納基地の補助飛行場として使用。
A滑走路:36m×1770m
B滑走路:27m×1770m
オーバーラン 240m

現 況
米軍の管理下にはあるが、日米地位協定に基づく、日米共同使用により、読谷村が敷地内に役場、スポーツ施設等を建設。滑走路はそのまま道路として使用。周囲はサトウキビ畑。事実上返還。
読谷補助飛行場跡

読谷村

所在地
米軍:ボーロー(BOLO)飛行場、ボーロー・ポイント飛行場(ボーロー(BOLO)は「なた」の意味。)

歴 史
1945年、米軍は、B29重爆撃機用として読谷飛行場の滑走路拡張計画を持っていたが、地形的に無理が有った為、隣接する土地に、2290mの滑走路を持つ当飛行場を建設した。
日本敗戦及びUSAF創設に伴い、放棄。
以降、ボーロー射撃場として、戦車の砲弾演習、戦闘機、銃器の射撃演習に使用。
1979年末、防空体制に関する日米協定締結以降、演習は激減、遊休化。
1992年 瀬名波通信施設を残して全面返還。

現 況
ホテル日航アリビラ及び、むら咲むら等の観光、リゾート施設、サトウキビ、紅イモ畑。
県道6号より、アリビラを経て、残波岬へ通じる道路は、元滑走路と平行に走っています。
土地改良総合整備事業による区画整理実施の為、旧飛行場の痕跡は有りません。

嘉手納町

名 称
旧日本軍:陸軍沖縄中飛行場、屋良飛行場
米軍:USAF嘉手納エアベース、KAB

歴 史
1944年、陸軍沖縄中飛行場として建設開始。45年3月に完成。同年3月30日に第32軍は滑走路の破壊を命令。
1500mの滑走路1本を持つ。北飛行場(読谷飛行場)の補助飛行場であった。
1945年、米軍上陸と共に占領。2290mの滑走路を持つ飛行場として拡張。その後USAFの創設後、在極東米空軍の中枢として拡張を繰り返す。
1967年、滑走路を3250mに拡張。

現 況
300mのオーバーランをもつA(3689m×91m)及びB(3689m×61m)2本の滑走路を持つ。
第5空軍指揮下の第18航空団のホームベースとなっている。

沖縄市

名 称
米軍:泡瀬飛行場

歴 史
1945年5月1日、米国海軍により着工。1520mの滑走路を持つ海軍専用の飛行場として7月完成。
同年9月に本格的な運用が始まる予定で有ったが、日本敗戦の為、一部を残し、放棄。
1977年3月、通信施設を除き、返還。

現 況
沖縄市泡瀬地区。市運動公園。市街地。
都市計画に基づく土地区画整理事業実施の為、飛行場の痕跡は全く有りません。

宜野湾市

名 称
米軍:MCAS(Marine Corps Air Station)普天間、普天間飛行場

歴 史
沖縄戦最中に、米軍が重爆撃機専用の2290m滑走路を持つ飛行場として建設。1945年6月15日に完成。
1952年、滑走路を幅46m、長さ2743m、オーバーラン 152mに拡張
1960年5月、空軍から海兵隊に移管
1969年11月、第1海兵航空団の第36海兵航空群のホームベースとなる

現 況

米国海兵隊普天間基地。
この施設は、他の在沖米海兵隊施設と異なり、在沖米海兵隊基地司令部の管理施設外となっており、普天間航空基地隊によって管理運営されている。

★MCAS普天間
http://www.futenma.usmc.mil/

浦添市

名 称
旧日本軍:陸軍沖縄南飛行場、仲西飛行場、城間飛行場、牧港飛行場
米軍:マチナト(MACHINATO)飛行場、キャンプ・キンザー、マチナト・ポイント飛行場
(マチナトは牧港(まきみなと)の外人読み)

歴 史
1944年4月、陸軍沖縄南飛行場として着工。9月に、1830mの滑走路を持つ、小型特攻隊用の飛行場として完成。実際には使用されず。
1945年6月1日米軍占領。後、7週間で、2130m滑走路に拡張。

現 況

キャンプ・キンザー。

★Third Forces Service Support Group
http://www.3fssg.usmc.mil/

西原町

名 称
旧日本軍:陸軍沖縄東飛行場、小那覇飛行場
米軍:与那原飛行場

歴 史
1944年5月10日に、陸軍沖縄東飛行場として着工。小型機専用の800m滑走路を計画。
第32軍の作戦変更に伴い、工事途中で放棄。
米軍占領後、与那原飛行場と称する、2130mの爆撃機専用飛行場として設営。その後、航空基地の統廃合の為放棄。返還まで海軍が管理。

現 況
工場、サトウキビ畑。一部住宅地。

那覇市

名 称
旧日本軍:海軍小禄飛行場、大嶺飛行場
米軍:那覇飛行場、那覇エアベース
自衛隊:航空自衛隊那覇基地、海上自衛隊那覇基地、那覇エアベース
海上保安庁:那覇航空基地
民間:那覇空港、那覇国際空港、沖縄空港

歴 史
1931年9月16日、海軍小禄飛行場建設開始
1933年、海軍小禄飛行場完成
1935年、民間機利用の為、小禄飛行場拡張工事開始
1936年3月11日、小禄飛行場拡張工事完成。
1936年3月21日、小禄飛行場、海軍から逓信省へ移管、名称を那覇飛行場に変更。
1942年8月、那覇飛行場、海軍へ再移管、名称を、海軍小禄飛行場に再変更
1943年、1500mの滑走路3本を持つ飛行場として拡張。
1945年6月6日、米軍小禄飛行場占領。後、南北の滑走路1本を2130mに拡張。他2本は放棄。
1972年、返還。自衛隊航空師団設置。

現 況
民間、自衛隊共用空港。沖縄の玄関口として、主要キャリアが就航。国際便も有り。また、航空自衛隊、海上自衛隊が共同使用。海上保安庁も第十一管区海上保安本部那覇航空基地を設置。
那覇空港
航空自衛隊那覇基地

那覇市

名 称
旧日本軍:陸軍石嶺飛行場

歴 史
1944年夏より、陸軍秘密飛行場として施工されたらしいが、未完成のまま45年3月建設中止。

現 況
現在の那覇市首里石嶺町3〜4丁目にかけて。
市街地。

名護市

名 称
米軍:宮里飛行場

歴 史
未調査
米軍の小型飛行場。

現 況
現在の名護市宮里町3丁目付近。名護中央図書館から南方向。市街地。

北谷町

名 称
米軍:瑞慶覧飛行場

歴 史
未調査
米軍の小型飛行場。

現 況
キャンプ・ズケラン(キャンプ・フォスター)

豊見城村

名 称
旧日本軍:海軍与根飛行場、海軍糸満秘密飛行場

歴 史
1944年夏より、海軍秘密飛行場として施工されたらしいが、未完成のまま放置。

現 況
畑、一部商業地。

糸満市

名 称
米軍:福地飛行場

歴 史
未調査
米軍の小型飛行場。

現 況
畑。

北谷町

名 称
米軍:ハンビー(Hamby)飛行場

歴 史
米軍の沖縄本島占領後、キャンプ瑞慶覧の一部、ハンビー飛行場として設営される。
長さ1035メートル、幅30メートルの滑走路を持ち、普天間飛行場と連動。海兵隊ヘリが離着陸訓練を実施していた。
1976年12月全面返還。

現 況
北谷町ハンビー地区。住居、商業施設、公共施設等。
土地区画整理事業実施の為、飛行場の痕跡は有りません。

参照資料
●沖縄県史ビジュアル版5 空から見た沖縄戦 沖縄戦前後の飛行場(沖縄県教育委員会)
●脱基地元年 127万人の実験(沖縄タイムス連載記事)
●現地の碑文等。
●金武町と基地(沖縄県金武町)
●軍用地および軍用施設現況調査報告(琉球政府企画局)