黄金宮

宜野湾市のパイプライン通りを走っていると、上の様な表示。
黄金宮、なんと甘美な名前なんでしょう! おそらく英語では、ゴールデン パレス とでも訳すのでしょうか?
下に書いてあるローマ字は本来の読み方です。「クガニ ナー」。果たして、どんな所でしょう?

こういう所でした。
いわゆる御獄の一種ですか。

で、何故ここを「黄金宮」と呼ぶか・・ですが、ここにある、宜野湾市教育委員会の説明板から読んでみます。

「黄金庭の由来」・・・ん?黄金宮じゃ無いの?
「天女の子と言われる察度は(天女羽衣伝説をご参照下さい。)ある日、勝連按司(かつれんあじ・・現勝連町の偉い人)の娘が婿選びをしているのを聞き、勝連に行き「娘さんを嫁に下さい」と頼みました。按司とその家来は大笑いし追い返そうとしました。
その時物陰から若者を見ていた娘は「この若者はただ者ではありません。結婚させてください。」と頼みました。娘を信頼していた按司は二人の結婚を許しました。
二人は大謝名(現、宜野湾市大謝名)にある若者の家へと向かいました。その家の垣根は壊れ、雨漏りがしていました。しかし、よごれたカマドをよく見ると黄金で作られていました。
不思議に思って尋ねると、察度の畑に沢山有ることが解り、二人は黄金を拾って貯えました。そしてこの地に楼閣を造り、金宮と名付けました。
当時牧港(現、浦添市牧港)には日本の船も出入りしていたので察度は鉄を買い入れ、それを農民に与えて農具を買い入れました。
察度はやがて人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王(ちゅうざんおう:琉球王朝の王様)となりました。琉球王朝と中国明朝との貿易を始めたのも察度です。
人々は彼のすばらしさを讃え、この地を聖地とし現在まで篤く信仰してきました。ところで、戦前の黄金庭は石門のある囲まれた場所でしたが、まだまだ謎も多く、今後の調査が待たれています。」
※かっこ内は管理人注。他は原文のままです。

だそうです。
しかし、最初察度は黄金の価値が解らなかったみたいですね。という事は、察度もさることながら、直感で奥様になられた、勝連按司のお嬢様も賞賛に価するのでは無いでしょうか?すなわち、この人こそ、あげまん・・・。
で、当時ここには、西洋のジパング伝説そのままに、黄金がゴロゴロしていたそうですから、今後の調査は、考古学者や歴史学者では無く、地質学や鉱物学の専門家とか、資源調査会社に依頼をして頂き、是非とも当時の金鉱脈を探して頂きたいと思います。

 
 
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