兼城十字路

旧名「南風原十字路」です。
沖縄戦時、米軍が中部から占領を開始し、南下してきた為に、戦闘から逃れる軍や住民は南部へ避難を開始しましたが、米軍は作戦上、主要道路の十字路などを重点的に、昼夜を問わずひっきりなしに艦砲射撃を続けていました。
当時、首里方面から南部に逃れる為には、この十字路を爆撃の合間を縫って通過する他に無く、ここには膨大な死体の山が築かれたとの事で、別名「死の十字路」と呼ばれたそうです。

 
 
沖縄発 役に立たない写真集