漢那市役所跡

現在ここには、この説明の看板が有るだけで、他には何も無いです。
第二次世界大戦で、米軍の沖縄占領後、沖縄本島の住民は全て各地に設けられた収容所に集められました。
当時、小さな寒村だった宜野座村の一部にも大規模な収容所ができ、その宜野座村の一部であった漢那の集落の人口が急増した為、米軍が一つの自治体を作った様です。
1945年10月の沖縄の、一般市民の収容所は次の通りです。
辺戸名市(現 国頭村 辺戸名)   人口29,497人
田井等市(現 名護市 田井等)   人口53,266人
瀬嵩市(現 名護市 瀬嵩)      人口28,680人
久志市(現 名護市 久志)      人口29,027人
古知屋市(現 宜野座村 古知屋) 人口19,194人
宜野座市(現 宜野座村 宜野座) 人口37,036人
漢那市(現 宜野座村 漢那)    人口27,661人
石川市(現 石川市 石川)      人口23,033人
平安座市(現 与那城町 平安座) 人口 7,992人
前原市(現 具志川市 前原)    人口40,183人
古謝市(現 沖縄市 胡屋)      人口10,286人
知念市(現 知念村 知念)      人口17,914人
当時、那覇、首里を含め、糸満から名護市までの沖縄本島東海岸周辺は全て立入禁止地域となり、その無人の間に、現在の米軍基地が作られていく事になります。
なお、行政機構は、米軍の軍政府機構が、現在の具志川市栄比野に有り、収容所に対する一切を取り仕切っていたそうですが、1945年、軍政府に地理的に近い石川市にて、県庁の前身の沖縄諮詢会が創設され、石川市が県政の中心となりますが、その後1946年には、軍政府の知念移転と共に知念へと移ります。那覇が再び行政の中心となるのは、1949年頃まで待たなければなりません。

 
 
沖縄発 役に立たない写真集