八重島特飲街跡

コザの八重島特飲街。特飲街とは、特殊飲食店街の略なのでしょうか、一般的には売春街と呼ばれた所です。
戦後まもなく、駐留している米兵が夜な夜な基地を抜け出し、近所の家に入り込んではレイプを働き、、また、周辺住宅地では、辻々に、全島から集まった春を売る女の人が立ち、困った米軍と周辺自治体とが相談し、比較的基地に近く、街から離れた原野に、1950年2月に性の解放地として作られたのが、この八重島特飲街だそうです。
そして、毎晩不夜城の如くネオンが輝き、「NEW KOZA」と呼ばれ、130軒もの風俗店が軒を並べ、300人を越える女性達が働き、昼夜問わず酒を飲み女を買う米兵でにぎわっていたとの事です。
その後、近くに、アメリカ人と琉球人との「健全な」商売の為のビジネスセンターが出来たのですが、その最初の目的とは裏腹に、売春ビジネスもそちらに移っていき、新しくそこが売春街となってしまい、八重島は衰退してしまったという事です。
なお、そのビジネスセンターとは、当時の名称「BC通り」、現中央パークアベニューとの事です。

現在ここは、完全に住宅地となり、当時の面影を偲ばせる建物は唯一これだけです。ここもクラブは営業しておらず、看板はそのままで、一般の住宅になっている様でした。
街並みも、よく見ると、英語の看板がうっすらと残っている家が有ったり、何となく歓楽街っぽい感じもするのですが、普通に通っただけでは、もう全くわかりません。

別記 

米兵の強姦、殺人、住居侵入等、女性を目的とした犯罪が、1946年から49年の間に1000件を越え、また、取り締まりをした沖縄側の警察を逆恨みした米兵が、警察駐在所を襲撃し、数名の殉職警察官を出すなどした為、警察が治安維持の観点から米軍慰安施設の設置を提唱し、当時の知事(琉球政府発足以前は、沖縄民政府の最高は知事と呼ばれていた)より米軍に、設置の陳情を行ったとの事です。内容は、
1)米人経営の慰安施設設置
2)沖縄人経営のダンスホールを兼ねた慰安施設設置
3)場所は、那覇、コザ、前原、石川に数カ所又はそれ以上。
4)設備の許可は知事
5)取締権は所轄警察署
6)ダンサーは毎週一回検診
7)営業時間は夏は午後11時、冬は午後10時まで

当時は慰安施設又は売春街とは言わず、「ダンスホール地区」と呼称していた様です。

これを受けて、1949年の終わりから1950年の始めにかけ、この八重島特飲街(New Koza)が建設されていき、また、1953年より、米軍のAサイン制度が発足し、琉米による管理売春制度が始まっていく事になるそうです。
なお、この施設の当初の目的であった、治安維持については、目的通り性犯罪系は減少していったそうです。

 
 
沖縄発 役に立たない写真集