読谷飛行場


(空から見た沖縄戦 沖縄戦前後の飛行場 より)


(空から見た沖縄戦 沖縄戦前後の飛行場 より)


(地形図 より)

読谷村の現「読谷補助飛行場」です。
左の空撮が、米軍が1945年1月3日に撮影した、日本帝国陸軍沖縄北飛行場。
1944年に完成した、長さ1500mの滑走路を持つ、陸軍の中心的な飛行場だった様です。
中の空撮は、その旧北飛行場を米軍が占領し、1945年4月3日より運用が開始された、米軍読谷飛行場です。旧日本軍の滑走路と平行して、もう一本滑走路が増設されているのと、駐機場も増設されてます。
右は現在の米軍読谷補助飛行場の地図です。現在、米国海兵隊の管理となってますが、日米共同使用という名目で、敷地内に野球場と村役場などが建っています。

こちら、現在の滑走路です。真ん中に2車線分アスファルト舗装が施され、道路として開放されています。

こちらは、現在の、元駐機場の誘導路。こちらも公衆用道路として開放されており、右側に見える管制塔の様な建物が新しく建設された読谷村役場です。
この滑走路と誘導路、そして外周道路以外の誘導路、滑走路は、現在ほとんど痕跡は残っておらず、全て畑になっております。強いて言えば、地図上で、道が誘導路等に沿って走っているという位ですが、こちらを通っても、全く舗装はされていない農道です。時折、コンクリート舗装の跡の様な感じを受ける場所も無い事はないのですが、飛行場の痕跡という確証は有りません。

運動場の裏には、日本帝国陸軍沖縄北飛行場時代の掩体壕が残っています。現在は牛舎として活躍中です。

米軍の占領後、ここに特攻攻撃をしかけ玉砕した、義烈空挺隊の慰霊所がサトウキビ畑の中にあります。

読谷補助飛行場は、日本帝国陸軍時代の建造物、米軍の滑走路、そして、返還後を見据えた建築物と、3世代(と言うのでしょうか?)の構造物が誰でも見る事の出来る、今のところ唯一のエリアと言えるでしょう。
返還後は、滑走路は近くを平行して走る国道58号線のバイパス(通称嘉手納バイパス)が通り、その他は公園や公共施設、生産緑地などになる計画だそうです。

 

 
 
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