浦添ようどれ

浦添市の浦添城址中腹にある、「浦添ようどれ」と呼ばれる、琉球王国の陵墓です。
向かって右側が1261年に作られた「英祖」王の陵墓、左側が1620年に作られた「尚寧」王の陵墓と言われています。
英祖王は、沖縄が3つの王統に分かれていた三山時代、浦添を中心とした「中山」の王で、尚寧王は、第二尚氏と呼ばれる王統で即位した王です。
ちなみにこの2つの陵をまとめて「ようどれ」と呼んでいるそうです。「ようどれ」とは琉球語で「夕凪」の事だそうですが、他に「極楽」という意味も有るそうです。
なお、現在市名になっている「うらそえ」には、「津々浦々を支配する」という意味があるそうです。

この一帯は、先の第二次世界大戦の際、日本軍の陣地として使われ、浦添ようどれも完全に破壊されてしまったそうです。その後琉球政府時代に復元工事がなされているそうですが、現在、再度復元工事及び発掘調査が進められており、通常は一般の立入は禁止されておりますので見学は出来ません。

ようどれ自体は、現在も英祖王一族や尚寧王一族が眠る、れっきとした現役の陵墓で、墓室内の発掘調査が終わると完全に門が閉ざされ、中を見る事は出来なくなってしまうという事ですので、私の行った浦添市教育委員会主催の墓室見学会では、沢山の方がご参集されており、中に入るまでに1時間30分を要しました。ディズニーランド並みの待ち時間ですが、墓室見学自体は数分です。当然ながら墓室内でアトラクションは有りませんでした。開設も無く、石棺などを止まってじっくりと見ようとすると係の方から「後ろがつかえてますので止まらず、歩いたまま見て下さい!」と怒られます。

切り通しになっている部分が、「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる部分で、本来トンネル状になっていた部分で、ここが聖なる場所に通じる通路だった様でが、戦争中、日本軍の陣地になった為、激戦で破壊されてしまったそうです。

こちらが英祖王の陵墓です。内部は撮影禁止ですので表だけご覧下さい。
琉球石灰岩を使った壁は新しく、内部も同様に真っ白ですので、遺跡という感じは受けないのですが、石自体は、戦前の石も可能な物は洗浄して使っている様です。ただ、玉殿以上に徹底して破壊されてしまった為、新しい石の方が多い様です。
内部は、自然の洞穴を利用し、一部加工した石を使って壁を作って墓室としており、そこに石棺が3基安置されています。
一つの石棺内には、一体の御遺骨が入れられているのではなく、少なくとも数体、英祖王の石棺と言われている物には10体以上の遺骨が入れられ、中はバラバラになった遺骨だらけになっていました。

こちらが尚寧王の陵墓です。こちらも自然の洞穴を上手く利用した墓室になっています。

尚寧王の陵墓向かって左上、只今県立博物館に出向中の為に、写真だけ置かれていたシーサー君です。
本来は左右一対有ったそうですが、向かって右側の物は、沖縄戦で破壊されてしまい、現在足の一部だけが残っているそうです。

ようどれの復元工事ですが、予定では平成17年3月頃終了だそうで、その時期くらいからは一般公開されるのではないかと思われます。ちなみに浦添城趾を含めた全体的な工事は、平成45年頃の完成だそうで、完璧をお求めの方は、その時期にお見えになられた方が良いかも知れません。

 
 
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